キプサング選手/ドーピング事件:SR/009/2020


ロンドンオリンピック・マラソン銅メダルで、元世界記録保持者のウィルソン・キプサング選手(ケニア)が、ドーピング違反で4年間の資格停止となりました。この処分は、World Athleticsにおける処分ですので、英国のSports Resolutionが担当しています。

この判断に対してCAS(スポーツ仲裁裁判所)に上訴することが可能です。

キプサング選手は、警官らしいのですが、この4月に夜間外出禁止令に違反して、仲間と飲酒して逮捕されているようです

この事案、ドーピング検査で禁止薬物が出たのではなく、居場所情報関連義務違反及びドーピングコントロールの不当な改変という違反です。後者の違反は、先日、大きなニュースになった中国のプールのスパースター孫楊選手と同じ違反です。

アンチ・ドーピング機構側の違反立証及びアスリート側の反証ともに、客観的な証拠と証人の信用性が重要になります。

コロナの影響か、証人尋問はビデオ会議方式で実施されたようです。

【主張されたドーピング違反】

  1. 居場所情報関連義務違反について

次の4件の居場所情報関連義務違反があった。

    1. 2018.4.27の検査未了(2018検査未了)
    2. 2019.1.18に提供された居場所情報に関する提出義務違反(2019提出義務違反)
    3. 2019.4.12の検査未了(2019.4月検査未了)
    4. 2019.5.17の検査未了(2019.5月検査未了)

キプサング選手は国際レベルの競技者で、WAのRTPに入っており、1年365日の居場所情報関連情報(各日の滞在場所やドーピング検査を受けることのできる60分の時間帯など)の提供・更新等の義務があり、情報提供をしなかったり、提供した情報に基づくドーピング検査可能な時間帯に提供した場所におらずドーピング検査ができなかった場合は、この義務違反となります。

居場所情報の提供は、アンチ・ドーピング機関が抜き打ち検査をするために義務付けられています。

この居場所情報関連義務違反は、1発アウトではなく、12か月のうち3回違反した場合に、ドーピング違反となります。

  1. ドーピングコントロールの不当な改変

2019.4月違反及び2019.5月違反について、キプサング選手が意図的に誤解を招く情報及び証拠をWAのAthletics Integrity Unit(AIU)に提供し、これら違反の調査を妨害する等した。

【仲裁判断の要旨】

  1. 居場所情報関連義務違反について
  1. 2018検査未了について

検査未了が居場所情報関連義務違反となるには、検査に応じなかったことについて、競技者に過失があったことをアンチ・ドーピング機関側が証明する必要があります。

キプサング選手は、2018.4.27はIten(イテン)の自宅で22〜23時にドーピング検査可能と居場所情報を提供していました。

キプサング選手によれば、次のような事情を述べています。

  • キプサング選手は、この日、妹のプレウェディング・アレンジメントのため、Muskut(マスカット)に旅行していましたが、翌朝長距離走を予定したため自宅に戻る予定であった。
  • キプサング選手は、同日20時30分にMuskutを出発し、1時間程度の道のりであるため、21時30分にはItenに到着する予定であった。※Google Mapsの経路検索でも1時間程度の距離
  • ところが、豪雨のため、MuskutからItenへ向かう途中のKolol(コロル)で地滑りが発生したため、時間のかかる別ルートで帰らざるをえなかった。
  • また、悪天候のため電話の電波が届かず、彼のマネジメントにも居場所情報の変更を連絡することができなかった。

キプサング選手は、この検査未了は不可抗力によるもので、過失はないと主張しました。

これに対し、AIUは、ケニア・アンチドーピング機構の調査担当者等2人の証人を喚問し、2018年4月に地滑りは起こっていないこと、しかし当該エリアでは2018年5月22日地滑りが起こったことを当該地区を管轄する役所で確認したことを証言させました。その裏付けとして5.22の地滑りの詳細が投稿されたFacebookページや当該役所は4.27のKololでの地滑りを認識していない旨の書面を提出しました。

さらに、AIUは、ケニア環境森林省・気象庁のKololに近接するCheptebo観測所から、同エリアの2018年4月の降雨データを取得し、提出しました。これによれば、4.27の降雨量は、13.6mlでした。要するに、その日、このエリアではほとんど雨が降っていない、ということでした。

こうして、キプサング選手の主張は採用されず、検査未了について他の要件を満たすとして、違反を認めました。

  1. 2019.4月検査未了について

キプサング選手は、この日、Itenの自宅でドーピング検査を受けることが可能と情報提供しておりました。決定書には60分の時間帯は明示されていませんが、22〜23時と思われます。

キプサング選手によれば、次のような事情を述べています。

  • この日は遅くとも自宅に22時50分に到着した。
  • キプサング選手が尿採取を提供できるようになるまでしばらく時間を要した。
  • DCOはナイロビに帰らなければならず、長くは待てないとのことだった。
  • こうした事情から、DCOは、今回は検査未了とはせず、後日検査を行うといった。

キプサング選手の妻や自宅警備員もキプサング選手と同様の証言をしています。

これに対し、DCOは、キプサング選手が自宅に到着した時間は、彼の自宅を去ろうとした23時20分以降であり、キプサング選手は自宅に22時50分には到着していないと証言し、これを裏付ける証拠としてDCOが作成し提出した”The Unsuccessful Attempt Rerot Form”やDOCに運転手兼シャペロンとして同行した者の証言が提出されました。

また、DCOは、キプサング選手が現れないため、22時55分〜59分ころまでキプサング選手に5回電話連絡を試みており、そのスクリーンショットを証拠として提出しています。

さらにDCOは、キプサング選手が現れないことから、上司に指示を仰ぐため、オランダにいた上司に電話連絡をし、23時20分を過ぎたら、検査を中止し、検査未了とするようアドバイスを受けたことを証言しました。そして、この上司も証言し、オランダ時間で10時5〜6分頃にDCOから電話を受けたことなどを証言しています。

仲裁人は、証人評価の方法を示したCASの先例(CAS 2016/A/4700,CAS 2015/A/4163)を前提に、AIUの証人の証言を採用し、2019.4月検査未了を居場所情報関連義務違反としました。

  1. 2019.5月検査未了について

先ほど述べたとおり、キプサング選手は違反として受け入れました。

  1. 2019提出義務違反について

キプサング選手は、2019.1.18、Iten(イテン)の自宅で22〜23時にドーピング検査可能と居場所情報を提供していました。

しかしながら、キプサング選手は、上記時間帯の開始する1時間21分前(20時39分)になって、検査可能な場所をItenからNarokに変更する旨の居場所情報の更新を行いました。

キプサング選手によれば、次の事情を述べています。

  • キプサング選手は自ら役員を務める建設会社”Oamtai Investment Ltd.”を持っており、この日、Narok郡が彼の会社に仕事を発注し、その仕事でNarok郡にいました。
  • キプサング選手によれば、Narok郡からItenまで、約2.5時間とのこと。
  • Narok郡の役所で会議を行い、会議後にNarokを発つ予定でしたが、予想以上に会議が長引いてしまいました。
  • そこで、キプサング選手はマネジメントに連絡をとり、検査可能な場所をItenからNarokに変更するよう指示しました。
  • 会議を中断してマネジメントに連絡をとることはできなかった。

キプサング選手は、ISTI のAnnex I.3.5に「The Athlete must file the update as soon as possible after the circumstances change…」とあることから、可能な限り速やかに通知したとして、違反について過失はない、と主張しました。

ここでは、キプサング選手が”updated his Whereabouts information as soon as his circumstances changed”したかが争点となりました。

この解釈については、先例はないようなので、重要な判断となります。

変更規定の解釈として、特に速やかな更新が求められる情報は、検査可能な60分の時間帯と検査可能な場所(その日泊まるところ)であるとし、更新はいかなる場合でも、検査可能な60分の時間帯の前にできる限り速やかに行うべきとしました。

そして、仲裁人は、この事案において、キプサング選手は、検査可能な60分の時間帯に間に合うために、十分な移動時間に加え、予期せぬ事態に備えて1時間余分にみておく必要があると判示しています。なぜ1時間を付加したかは明記されていません。

ところで、キプサング選手は、NarokからItenまで175kmで2.5時間と証言したようですが、AIUは、Google Mapsを根拠に300kmで車で5時間39分かかると主張しました。

仲裁人がググったところ、NarokからItenまで3とおりの行き方があり、最短で246kmで5時間46分という結果だったようです。

キプサング選手の距離と所要時間に関する主張は排斥され、結構時間がかかるという判断になりました。そうすると、長引いた会議が終わってすぐにマネージャーに伝えたとしても検査可能な場所の更新があったのは、20時39分ですから、検査可能な場所をNarokに変更した場合、Itenに向かっていたDCO等は検査可能な時間帯にNarokに到着できないことが容易に理解できます。

こうした、キプサング選手の説明は、より早く居場所情報を更新できなかったことについて合理的な説明になっていないと判示し、”できる限り速やかに”居場所情報を更新しなかったことについて過失がないことを立証できていない、という判示しました。

以上から、4回の居場所情報関連義務違反を認めました

  1. ドーピングコントロールの不当な改変について

これは、キプサング選手が居場所情報関連義務違反を認めた2019.5月検査未了、及び2019.4月検査未了に関連します。この検査未了の認定至る過程で、キプサング選手が意図的に誤解を招く情報及び証拠を提供したことが問題となりました。

2019.5月検査未了について

キプサング選手は、2019.5.17に居場所情報で提供した検査可能な時間帯・場所にいなかった理由として、次の事情を述べています。

  • 5.14,15とNairobi(ナイロビ)に滞在し、警官としての仕事をしていた。
  • 5.15にNairobiからNakuru(ナクル)に自分の車で行った際、1.5〜2時間程度かかった。
  • 5.15にItenの自宅に帰る予定であったが、夕方にItenに帰れなくなって、Nakuruに滞在することに決め、居場所情報も更新した。
  • 5.16の居場所情報は、Nakuruで7〜8時の時間帯にドーピング検査可能とした。
  • 5.17にキプサング選手は、米国大使館にビザを取りに行くため、Nairobiに戻った。
  • キプサング選手は、Nakuruに住むKigen氏にドライバーをお願いし、5.17の15時、NairobiからItenに向かった。
  • 18時頃、Nakuruの10kmほど手前で、交通渋滞にはまった。
  • 彼らが会った人から聞いたところでは、トレーラーとバスが巻き込まれた事故があったとのこと。

キプサング選手は、2019.9.5にこの旨の陳述書、2019.5.17の遭遇した事故の写真及び当日運転手を務めたKigen氏の陳述書を提出しました。
これによれば、事故写真について、Kigen氏は、事故を見ていないが他のドライバーから事故があった聞いて、どの車かは分からないが、ケニアではよくあるトレーラーの横転事故と思い、他のドライバーもそう言っているのを思い出した。キプサング選手から尋ねられて、Facebookで見つけたトレーラーが横転している写真を送ったなどとし、そのとおり証言もしたようです。

AIU側は、これらはすべて嘘であると反論し、当該写真は、2019.8.19に生じた事故としてケニアの主要新聞社がYou Tubeに投稿したビデオ及びウェブサイトの記事を提出しました。また、AIUは、You Tubeにビデオを投稿した新聞社の担当者に当該事故が2019.8.19に発生したものであること、警察の事故係の記録にも当該事故が存在しないこと等を確認しました。

2019.4月検査未了について

上記1c.のとおり、キプサング選手が自宅に帰ってきたのは、検査可能な時間帯の中(22:50)ではなく、検査が打ち切りとなった後の23:20過ぎと判示されているので、キプサング選手やその妻、自宅警備員は、虚偽の事実を述べていたことになります。

上記の行為ドーピングコントロールの不当な改変(Tampering)にあたるか?

AIUは、競技情報の提供や嘘がTamperingに該当するとした先例(CAS 2015/A/3979, SR/324/2019)をあげています。

キプサング選手側も、嘘だけではTamperingにあたらないとする先例(CAS 2017/A/4937,SR/272/2019)をあげています。

本件の仲裁人は、SR/140/2018 IAAF v. Jemima Jelagat Sumgong事案における次の判示に同意するとしました。

“As to the law, the Athlete’s supply of a false explanation for the presence of r-EPO and the submission of false medical documents by her to the Kenyan Tribunal can only be analysed as a deliberate attempt to prevent the administration of justice in her case and improperly to affect the outcome of the hearing in respect of the AAF for r-EPO.Perjury and forgery inevitably go beyond the bounds of legitimate defence under any civilized system of law.”

言いたいことは最後の一文、偽証(Perjury)と偽造(Forgey)は現代の法体系の下では正当な防御の範囲を必然的に超える、ということに尽きるということでしょう。

仲裁人は、2019.5月検査未了に関連して、違う日の交通事故の写真を当日の原因となった写真であると提出したこと(本人の証言やKigen氏の証言)、2019.4月検査未了に関連して自宅の到着時間を偽ったこと(本人の証言のほか妻や自宅警備員の証言)は、キプサング選手が単に嘘をついたというだけではなく、嘘の証拠を作出することに寄与した、と評価してTmaperingにあたるとしました。

以上により、キプサング選手の行為は、居場所情報関連義務違反とTampering違反となりますが、これらは1つとして処分され、このうちもっとも重い処分が科されることになります。
前者は2年間の資格停止で、後者は4年間の資格停止ですので、4年間の資格停止処分とされました。

 

ほかにも手続的な論点が多くありましたが、CASでのポイントは、Tamperingの該当性と思います。これに該当しなければ、居場所情報関連義務違反だけであれば2年間の資格停止で済むことになります。この争点は、過去のCASとSR事案の引用が多く、きちんと調査すれば1つ論文がかけそうです。

この事案は、①居場所情報関連の虚偽情報の提供とTamperingの該当性、②検査未了成立要件のISTI-I.3.5の”as soon as possible after the circumstances changed”の解釈、といったあたりで参考になりうる判断と思います。

弁護士大橋卓生